パリ・パラリンピック2024のバトミントンで日本代表となった梶原 大暉選手。
東京パラリンピックではシングルスで金メダルを獲得し、男子ダブルス(梶原/村山)では、銅メダルを獲得しています。イケメンでもあり、2024年のパリパラリンピックでの活躍も期待できますね。
梶原大暉選手は右足の膝から下がありません。理由は事故で失ったと聞きますが、どんな事故だったのでしょうか?事故の原因について調査しました。
また、プロフィールや事故後の経歴についてご紹介します。
梶原大暉(バドミントン)の右足を失った事故の原因は?
梶原大暉選手は現在バドミントンの選手として活躍しています。右足を失った事故の原因は何だったのでしょうか?
梶原大暉選手は中学2年生の時に交通事故に遭い、右足を失いました。
事故当時、梶原選手は軟式野球チームのエース候補として期待され、大会後、新チームでエースナンバー「背番号1」をもらう予定でした。
自転車で野球の練習に向かう途中、トラックと衝突する事故に遭います。
救急車に運ばれる時は意識はあったものの、事故の結果、右大腿部から下を切断することになり、左足にも麻痺が残る重傷を負いました。
病院に着いた時には意識は途絶え、約1ヶ月間意識不明の状態が続きました。
事故の規模から見て、かなり大きな衝撃を受けたもだったのでしょう。
この事故をきっかけに野球を断念せざるを得なくなった梶原選手ですが、その後パラバドミントンと出会い、19歳で東京パラリンピックの金メダリストとなる快挙を成し遂げました。
梶原大暉(バドミントン)のwiki風プロフィールと生い立ち
梶原大暉選手は小学3年時から「筑紫丘ファイターズ」で野球を始め、中学では軟式で全国大会の出場経験もある強豪「福岡ベースボールクラブ」で投手として活躍していました。
2015年、13歳の時に練習に向かう途中で自転車で交通事故に遭い、右足のひざから下を失い、左脚にもまひが残りました。
その後は福岡市立福翔高等学校に進学し、パラバトミントンと出会います。そこで、大暉選手は「野球の経験が生きた」と語っています。ラケットでショットを打つ時と、ボールを投げる時の手首の動きは似ており、羽根の落下地点を捉える感覚は、フライを捕る感覚に近かったと語っています。
また、「パラバドミントンに出会ってから人生が変わった」と語っており、競技との出会いが彼の人生に大きな影響を与えたことがわかります。
「勝たないと興味を持ってもらえない」という考えのもと、常に勝利を追求し続ける姿勢を持っています。
梶原大暉(バドミントン)の事故後の経歴
梶原大暉選手のバトミントン選手としての経歴をまとめました。
梶原大暉選手は、バドミントンを始めてから約4年という短期間で東京パラリンピックの金メダリストになるという驚異的な成長を遂げました。
パラバドミントンが東京大会から正式種目として採用されたこともあり、梶原選手はバトミントンの初代パラリンピック王者となります。
この急速な成長と19歳という若さでの金メダル獲得は、多くの人々に感動を与え、SNS上でも祝福の声が多く挙がりました。
パリのパラリンピックでもぜひ金メダルを取って欲しいですね。活躍を期待しています。
梶原大暉(バドミントン)まとめ
以上、「梶原大暉の右足を失った事故の原因は?wiki風プロフィールや経歴も紹介(バドミントン)」をお届けしました。
梶原大暉選手が右足を失った事故の原因は、中学2年生のとき、自転車で野球の練習に向かう途中、トラックと衝突する事故が原因でした。
事故の結果、右大腿部から下を切断することになり、左足にも麻痺が残る重傷を負いました。
野球選手としての夢は途絶えてしまったものの、高校でパラバトミントンと出会い、野球での経験を活かしながら、バトミントンを始め、約4年という短期間で東京パラリンピックの金メダリストになるという驚異的な成長を遂げました。
梶原選手は、「パラバドミントンに出会ってから人生が変わった」と語っており、事故という辛い経験から驚異的な成長は目を見張るものがありますね。
これからの活躍も期待しています。